いじめカルチャーを超えて

昨日は、たまたま、マスコミに叩かれまくっている2つの会社を訪れる機会がありました。何か不祥事が明るみに出ると、ここぞとばかり、会社ごと非難しまくるのは、「いじめ」メンタリティ以外の何物でもありません。
台風による集中豪雨の際に、伊豆大島で避難勧告が出されなかったことについても、役場と町長を責める論調に見えますが、仮に勧告を出して、避難所が被災した場合、あるいは、深夜、避難の途中で事故が発生した場合には、やはり批判していたに違いありません。(被害に遭われた方々・ご家族の皆様に、心からお見舞い申し上げます。)
人間の社会には人智の限りを尽くしたとしても、予想不可能なことがあり、結果だけを見て、後出しじゃんけん的に人を責めるのは卑怯と言うものです。もちろん予測に関して「人事を尽くす」ことはとても大事なのですが………。
昨日、お伺いした2つの会社には「ヨットは逆風でも前に進みます。向かい風に負けずに、目の前の責任を果たしていって下さい。長期的なビジョンの実現を目指して邁進していって下さい。」と僕なりの応援メッセージをお伝えしてきました。

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という記事をFacebookに書き込んだたところ、
「大島の件は同意します。しかし、東電の福島の件は、まだまだ終わらせてはいけないと思う。責任追及すべし。私はそう考えます。」
というコメントを頂戴しました。うーむ。

「東電の福島」というフレーズに端的に表れているように、東電だけを悪者にするような論調はきわめてミスリーディングだと思います。福島で起こった事故の責任は東電だけのものではありません。原子力政策を推進してきた戦後の自民党政権経済産業省の政策による部分がきわめて大きいと思います。しかし、それとても、石油危機以来、化石燃料の依存度を下げるために原子力エネルギーが魅力的に見えたのも事実。原子力推進の立場の方も、国民の幸福を考えて判断をされてきた訳で決して悪者ではありません。また、国民は原子力推進の政党を政権政党として選択し続けてきた訳です。

かくいう僕自身にも責任の一端はあるのです。特に、FBにも何回も書いてきましたが、1982年に書いた卒論の中で「廃炉技術が確立していない原発は増やすべきでない」と明確に認識し、提言していたにもかかわらず、そのことを松下政経塾出身の政治家に必死に伝えるという努力を怠ってきました。僕自身がいつの間にか「安全神話」の中にいたのではないかという後悔があります。せめて、高レベル廃棄物の最終処理(or 長期保管)について道筋をつけることが僕たちの世代の最低限の責務だと思います。

おそらくは、過去の責任を追求することにエネルギーを費やすよりも、これからどうするか未来を真剣に考えた方が良いでしょう。フクイチの汚染水対策も重要ですが、4号炉燃料プールの方がリスクははるかに大きい訳で、数少ない専門家(しかも累積線量が制限値を超えると現場にいられなくなる)を裁判に召還しているヒマはないと思います。日本全国に存在する原発を、たとえ稼働していなかったとしても、3年前よりも安全にするための努力が必要です。

そのためにも、劣悪な現場で、私たちのために働いて下さっている東電の方、下請け作業員の方達をみんなで応援することが必要だと思うのです。そして、マスメディアが誰かを悪者にしてバッシングを繰り返すこれまでのパターンから卒業してほしいと願っています。非難の応酬に終止する「闘論」ではなく、建設的な議論をするトーク番組の司会・ファシリテーターをつとめたいと心から考えています。