守から破離へ

日本の伝統文化の学びでは、世阿弥の「守破離」がよく引用されます。「守」のフェイズでは、師匠の技だけではなく、その人となりからも学ぶことが重要とされます。しかし、師匠を絶対的なものと神格化するのはいけません。それでは、「破離」のステップに進んでいけません。その道が発展しません。
松下村塾に集った吉田松陰の弟子達は、師匠の教え「尊王攘夷」を墨守するのではなく、「尊王開国」のリーダーとして活躍していきました。松陰の「大和魂」を継承し、時代の要請に対応するためには、師匠の志(Why)は受け継ぎつつも、行動計画(What & How)は変えていく必要があったのだと考えます。
松下政経塾で学んだ僕自身にとっても、「師が求めていたものを求める」姿勢は不可欠。ただ「松下幸之助が求めていた境地」はあまりにも高いので、遥か遠くに見える頂きを目指して、倦まず弛まず歩みを進めていくしかないと思っています。
東京大学中原淳先生のエッセイ「弟子は師匠を見てはいけない!? : 仕事の価値軸をつくることの意味」を、今朝の自分に引き寄せて読んだ感想でした。