父が亡くなりました(長文です)

3月11日の地震発生以来、多くの方が、これまでの
普通の生活のペースに影響を受けていらっしゃると思
います。僕自身もまさに激動の1週間でした。
 
いつも懇意にして下さっている皆様には、ご報告が遅
くなり、大変、恐縮ですが、3月9日(水)の早朝、
父・本間明が石巻赤十字病院で亡くなりました。78
歳でした。母と一緒に、金華山を臨むホテルに宿泊中、
急性心筋梗塞であまり苦しまずに逝ったそうです。ク
ジラが食べたいと言って(そんなに好物とは知りませ
んでした)刺身に舌鼓を打ち、温泉に3回も入ったそ
うです。(そんなことは滅多にしない人でした)死に
顔を見ると、実に満足した表情をしていました。
 
母と父の亡骸は、東北自動車道を霊柩車で東京に戻り、
11日が友引だったため、11日に通夜、12日に告
別式を営みました。父を直接よく知っている方達との
お別れを最優先にということで、私と弟の友人・仕事
関係の皆様には、一切ご連絡を控えさせていただきま
したのでご了解下さい。また故人の遺志によりまして、
お香典やお花等はこの後もご辞退させていただきます。
 
11日の午後は、経済産業省で「キャリア教育コーデ
ィネーター研究会」の最終会合でした。座長である僕
の都合に合わせて組んでいただいた日程でした。3年
間のディスカッションの結果、「一般社団法人 キャ
リア教育コーディネーター・ネットワーク協議会」が
3月8日に設立され、今後はこの協議会が中心となっ
て、学校と地域社会・民間企業などを結ぶコーディネ
ーターの育成・認定にあたってまいります。僕も理事
の一人として力を尽くしていきたいと思います。
  
この日もいつものように司会進行をつとめておりまし
たが、午後2時47分、震度5強の揺れに襲われ、生
まれて初めて、机の下に頭を隠すように指示を出しま
した。その後は、東北地方から参加されていた方もい
らっしゃいましたので、状況の把握や宿舎の確保にば
たばたして、審議どころではなくなってしまいました。
 
終了後、僕自身も霞ヶ関から通夜の営まれる中野坂上
まで、歩いて移動しました。無言で歩く人の列の中の
一人となり、NYの9・11の時のイメージとダブりま
した。10メートルの津波予報が出ていたので、非常
に気になりましたが、携帯もつながらず、情報が得ら
れませんでした。何とか6時半に到着し、参列するこ
とができました。
 
実家でTVを見て、津波の猛威を見て言葉を失いました。
一家が、あるいは、集落そのものが、流されてしまっ
たケースもたくさんあるはずで、遺体がそこにあり、
家族が囲んで葬儀を行なえることが、実はとても幸せ
なことなのだと思わずにはいられませんでした。
 
父の兄は福島から予定よりも早く経っていたので、東
京の次男(僕のいとこ)の所までは到着していました
が、都内の移動ができず、通夜には参加できませんで
した。しかし、ご近所の方をはじめ、父と直接交流の
あった方にご参集いただき、滞りなく送ることができ
ました。
 
50歳を過ぎてから「一期一会」ということを、強く
意識するようになっていました。父と最後に会ったの
は元旦だったと思います。割と近くに住んでいても、
なかなか直接、顔を合わせる機会は少なかったです。 
 
中学生・高校生時代は、高級サラリーマンの子弟が多
い受験校でしたから、つい同級生の父親と比べて、冴
えない父親だ、と感じていました。勉強を教えてもら
った記憶はないし、教えられっこないと思っていまし
た。ただ、今にして思うと、「お前はこういう道を歩
まねばならない」といった押しつけがまったくなかっ
たことに感謝の気持ちでいっぱいです。振り返えれば
僕が、なかなか一言で説明のできないユニークな経歴
(親から見れば、危なっかしいと感じていたはず)を
歩むことができたのは、父の懐の深さの賜物です。
 
晩年の父は、民謡と相撲甚句に興味を持ち、同世代の
友達からは温厚な人物として親しまれていました。山
形の田舎の農家から上京し、母の実家である呉服屋に
婿養子に入り、強いリーダー・タイプの母と婦唱夫随
で52年11ヶ月、それなりに幸せな結婚生活を全う
できたのではないかと思います。僕と弟は、心配のか
けっぱなしでした。ごめんなさい。
 
最近、僕も額のラインの後退が顕著で、やや父の髪型
に近づいてきています。26歳で父親になった彼と異
なり、僕自身はまだ子ども達が小さいので、健康には
留意しないといけないな、と思う今日この頃です。
 
ということで、長文、最後までお読みいただきありが
とうございました。         (本間正人)