大来佐武郎先生 生誕100周年

 11月3日、私の師匠で、開塾当時、松下政経塾の理事もおつとめいただいた大来佐武郎先生の生誕100周年記念会に参加しました。5期生の水上慎士君が中心となって企画したものです。5期生の武正公一君、6期生の薦田宏俊君は、大来事務所OBとして、当時、内幸町の富国生命ビル13階にあった内外政策研究会で実務研修を積んだ仲間です。また、甲斐君、田幸君、小峰君も出席していました。
 大来佐武郎(おおきた さぶろう)と言っても、若い世代の方は、ピンと来ないでしょうけれど、日本を代表する偉大な国際人でした。中国・大連に生まれ、第二次大戦中に、すでに日本の敗戦を予測し、戦後復興のプランニングをスタート。物資の配給を司る経済安定本部から、経済企画庁へ移り最初の経済白書を執筆し、所得倍増計画の担当局長を務めて退官。その間、ECAFE(現・ESCAP)で日本人国連職員第一号となり、現地現場で英語コミュニケーション力を磨かれました。
 退官後は、経済協力基金の総裁を経て、民間人として大平内閣の外務大臣をつとめ、大平総理急逝の直後、ベネチアサミットでは首脳会議に出席されました。僕は1984年、当時、国際大学学長などを務められていた大来先生のアシスタントとなりました。9月にワシントンで合流して最初の仕事が、フレッド・バーグステン理事長率いるIIEの会議でした。93年に大来先生がご自宅で心臓発作で亡くなられた時に、電話の向こうにはバーグステン氏がいたという奇縁を後に知りました。
 僕が、大来佐武郎の名前を最初に知ったのは、大学時代、ローマクラブ第一レポート「成長の限界」の監訳者としてでした。僕自身、55歳になった今でも「僕達の世代のローマクラブ」を設立することを目指し、「学習する地球社会」のビジョン構築へと、仕事をしています。 
 円満な性格で「座長」としておさまりがよく、晩年にも、国内外の様々な役職をおつとめになられていました。大来先生が提唱された環太平洋協力は、APECという形になり、ブルントラント委員会がまとめた「持続可能な開発」(sustainable development)の考え方は、今や国際社会の常識となっています。
 僕は、大来先生が怒った所を見たことありません。まさに「大人(たいじん)」の風格を備えた方でした。それから30年。師匠の足跡の大きさに改めて感嘆しないではいられません。能力とともに、人格を磨くことの大切さを痛感します。
 松下政経塾の目指す所、すなわち「新しい人間観に基づく政治経営の理念を探究し、人類の繁栄幸福と世界の平和に貢献」することを、私自身の行動指針として、命ある限り、精進していこうと決意を新たにした次第です。